昭和四十五年五月三十一日 特別奉修委員会
各々が持つひとつの難儀というか心配というか、そういうのが無いというのはなかろうとこう思うんですが。今日一日でも、いよいよお取次さして頂いた中に「あぁ、この人にとっちゃこれは心配な事だろうなぁ」と「この人にとっちゃやっぱり難儀だろうなぁ」と思うお取次をいくらもさせて頂いたんですが、そういうお願いを<御祈念させて>頂いとりましたらね、先日、竹葉会の日に文男先生のところから、このくらいのなすびのお供えを頂いたんです。京都から送ってきたからと云うて持ってきた。そしたら又、大橋の方から持ってくる。同じなすびをですね、五、六本ずつ持ってきてそれぞれに生姜が付けてある。京都の問屋さんから送ってきたという訳ですよね。「これをフライパンで炒めて生姜醤油で
召し上がって下さい」といったような事が書いてあったらしんですよ。ですから文男さんところも機せずしてなら合楽に持って行けという事だったでしょうし、大橋の方もやっぱりそうだったんでしょうね。まぁ思いというかね、思いが機せずしてという訳でもないけど、いつもがね、合楽ヘ合楽へとこうちょっと珍しい物をもろうたら「合楽へ持って行け」といったようなですか、そういう例えば神様へ向ける心というかね、私はそういう風に思うたんですけれども、今、様々な皆さんの心配事とか悩みとかをお取次させて頂きよったら、その時頂いたなすびをコロコロといくつもころがして頂くんですよ。丸いなすびなんです。なすびのお知らせは、安心とおっしゃるからね。ひとっつも心配な事はない。心配な事はないというけれども、例えば、なら各々がですね、例えば心をいつも神様に向けてさえおれば心配ないという事だと思いましたですね。あるお徳を受けられた先生がおっしゃった言葉の中にですね、氏子が悩むとか心配で一生懸命参って来ておる時なら心配ないとおっしゃる。心にかけ続けておるからです。けども、もう何とはなしに胡座をかいたような信心をしておる。自分としては、有り難い事じゃある。まずは、おかげ頂いて勿体ないと云いよるばってんですね、もう神様の方へ心を向けてない時、そういう時が心配だと。心配がある、悩みがある時一生懸命心を神様に向けておる者なら心配はないとおっしゃるんだというお話を聞いた事がありますがね。ほんとにそうだと思います。
今日、私が皆さんの何人かの「あぁ心配じゃろうなぁ、悩みであろうなぁ」と思う、その事をお願いしたらなすびがコロコロと・・・その時頂いたなすびをそのまま頂くんです。しかもそのなすびのここへ来た経過というのが、大橋方にしろ文男先生方にしろ同じ。同じ日に京都から送って来たんですよね。だから合楽に持って行け、こちらの方も合楽へ持って行け、同じ事になっている。そういうね、心が気張ったものじゃない人、そうですね、神様じゃけんで特級酒の一本でも持って行かにゃならんと気張ったものではなくてですね、もうほんとに「あぁ珍しい物を頂いた、すぐ神様に」と心が動くという事なんです。だからその心が神様にサッと動く、そういう心があれば心配はないという事だと、私は思いましたですね。どうぞ。